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読み切りショートストーリー「エンデュアランスに乾杯!」

 
 
バーには、毎日のように足を運ぶ濃い常連客がいる。その中でも彼は、この店のレギュラー中のレギュラーだ。いつも決まった時間に現れ、いつものスペシャルカクテルをいつもの杯数だけ飲んで帰る。

 多くの常連客がそうであるように、彼もオーダーする酒は決まっている。彼のはベネズエラ産ラム「サンタテレサ・クラーロ」の水割りに、トリニダード・トバゴ産の薬草酒「アンゴスチュラビターズ」を数ダッシュ加え、くし切りのライムを絞り入れてステアするスペシャルなカクテルだ。
 なんでも、若いころ放浪した中南米で、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴのバーで飲んだ思い出のドリンクなのだそうだ。私は十数年バーテンダーをやっているが、そんなカクテルは知らなかった。彼は、このスペシャルカクテルを由来に、みんなから「カリブさん」と呼ばれていて、当人もそれを気に入っていた。

 彼はいつも、カウンターのいちばん奥の席に座る。ウチの店は予約席を設けていないが、常連客たちはカリブさんのために「指定席」を空けていた。彼がこの席を選ぶのは、そこが落ち着くからというよりも「邪魔をされたくない」という意味からだ。
 といっても、人を排するような刺々しいオーラを発しているわけではない。店のスタッフや顔見知りの客とは気さくに挨拶を交わし、常連ぶることもない。歳が一回り以上も下の私にも、敬意を払って接してくれるジェントルマンだ。それでいて、どこか飄々としたふうがあり、縁起の良いマスコットのような雰囲気を漂わせていた。


 


 バーは酒を飲む場であるほか、社交場としての役割も担っている。一人客が居合わせると、とりとめのない酒場談義に花が咲く。そこで、職場でもなく家庭でもない、その場だけの独特のコミュニティーが形成される。ところが彼は、席に着くとすぐバッグから本を取り出し、物語の世界へ没入するのだった。

 バーでの読書を好む人は少なくない。電車の中でよく本が読めるように、ある程度の喧騒は読書環境に合っている。それが、携帯ゲームやパソコンなどの電子機器では無粋だが、グラスを傾けながらページをめくる姿はバーの情景にマッチする。ハードボイルド小説によく酒場が登場するように、本とバーも相性がいいに違いない。

 彼の本にはカバーがなく、図書館のシールが貼ってあるので貸し出された本だとひと目でわかる。ジャンルは主に小説で、現代ミステリーから歴史もの、国内外の古典からファンタジーまでさまざまだ。

 その夜は『エンデュアランス号大漂流』という本を手にしていた。これは、1914年に南極大陸横断に失敗した探検隊が、1年8ヵ月後に氷の海から奇跡の生還を果たすというノンフィクションアドベンチャーだった。

 普段は物語の世界に入っていくカリブさんに、むやみに話しかけることを控えている。しかし、その本は読んだことがあったので、読み終えたタイミングを見計らって話しかけてみた。

 「確か、船名の『エンデュアランス』は不屈の精神という意味でしたっけ」
 「そう。けどこの探検隊、遭難したのに重々しさがないよね」
 「本当は悲惨な状況なはずなのに、妙に明るくて救われます」
 「逆境に耐えるには、楽観的なところも必要なんだろう」

 この日は、そんな短い会話を交わしたのを記憶している。



 次の日、いつもの時間を過ぎてもカリブさんは現れなかった。その次の日も、そのまた次の日も。あの日を境にパッタリと足が途絶えた。

 「カリブさん、どうされたんでしょう?」

 何人もの常連さんから尋ねられたが、私にもさっぱり分からない。少なくとも店で何かのトラブルがあったとは考えられなかった。あの日もカリブさんは、いつもの時間に現れ、いつものスペシャルカクテルをいつもの杯数だけ飲んで帰った。
 みんな、そんな「いつもの人」が突然いなくなったので心配していた。しかし、その一方で、「ある組織から秘密の任務を命じられたんだ」「駆け落ちしたに違いない」「高額の宝くじに当たって雲隠れした」などなど、勝手に推測して酒の肴にするのはいかにもバーらしかった。



 再びカリブさんが現れたのは、それから1ヵ月半も経ってのことだった。左足をギブスで固定して、松葉杖を両脇に挟んでの痛々しい姿だった。
 常連客たちはみな、その姿に驚き「どうされたんですか?」と声をかける一方、意外と明るい顔色を見て「やっぱり、敵の組織にやられたんですか?」と冗談を放つなじみ客もいた。

 カリブさんの話すところによると、あの日の夜、帰宅途中にある坂道の階段を下っていたところ、携帯電話の着信音に気をとられて踏み外したのだそうだ。どういう落ち方をしたのか思いのほかの大ケガで、ずっと入院生活を余儀なくされていたという。まだまだ不自由な体だが、ようやく退院して真っ先に向かったのがこの店だとのこと。それはお世辞にも嬉しかった。

 いつもは口数の少ないカリブさんだったが、さすがにこの日は久しぶりに見る常連客たちの顔を前に饒舌だった。話題は事故の顛末と、初めて経験したという入院生活での話。膝の関節を傷めたそうで、ギブスが取れても数か月のリハビリを要するのだという。

 そんなカリブさんの足を固定しているギブスを見ると、小さく「ENDURANCE(エンデュアランス)」と書かれていた。私が「リハビリも不屈の精神ですね」というと、カリブさんは「本を読むように楽しむさ」と笑って応えた。

 その夜は、みんなでカリブさん愛飲のスペシャルカクテルをかざし「エンデュアランス!」と、「いつもの人」の一日も早い快癒を祈って乾杯した。

(了)


文: 福信行(組立通信)

※飲料メーカー/2012年掲載。